もしも14年前、原爆ドームが解体されたならば、

被ばく地と被災地、何が違うのだろうか。被ばく地も被災地、時とともに忘れ去られる。チリ沖地震、伊勢湾台風、これらは多くに人が記憶に残っていない。被害の受けた人が、存命しない社会となればなおさらだろう。書物やニュースとして保存はされているだろうが目にしないものは、心に残らない。

広島原爆ドームは、なぜ原爆の象徴として残ったのか

広島の原爆ドームは、国の内外から人々を呼び寄せる。そして原爆ドームを見た人々、自分の目で見たことが強い感情となって、心に湧き上がってくる。当時から現存する人々は、この原爆ドームを見ることがつらかったという。にもかかわらず現存させたことにいかなる意味があるのだろうか。それは、目に見えなくなったら、記憶から消えてしまうと思ったからである。
広島は、いつしか人を内外から呼び寄せる平和都市となった。原爆の象徴を示す原爆ドームを残すことは、たやすいことではなかった。”原爆ドーム”、”こんなものは見たくもない”、”崩れるまま崩れるほうが良い”多くの大人の声に、しずかな反論を上げたのは子供たちであった。
チェコの建築家ヤンレツルの設計で完成したドームは3階建てのモダンな建造物であった。産業奨励館と呼ばれ、物産展や、博覧会が開かれ、賑わいの場として親しまれてきた。
1945年の8月6日、日本から2400キロも離れた島から爆撃機が飛び立った。目指したのは広島の中心地、上空600m炸裂した原爆、爆風がほぼ真上からだったためドームの頭が奇跡的に残った。
被ばく者らは、”記憶に残るものはみんな消し去りたい”という気持であったという。4年後の調査では、保存を望む声が60%を超えていた。が、一方、”思い出したくない”という住民も30%を超えていた。当時の市長は保存とは名ばかりで、手を加えずに放置することであった。14年目が過ぎたころ、広島の下り鶴の会の子供たちが保存しようという声が沸き上がってきた。子供たちの声の背中を押したのが大人である。ある大人は、”恥ずかしいですけれど、本能からたたき起こされた様な気分”。子供たちが言う ”目から消えるものは心からも消えてしまう、だから残すんですと。”

長崎の浦上天主堂はなぜ解体されたのか

広島の3日ごに落とされた、長崎原爆浦上天主堂は2つの鐘桜を備えた大聖堂であり。東洋一ともてはやされた。その日長崎上空は厚い雲に言われていた。爆撃機が見つけた切れ目、その下が浦上天主堂であった。被ばく前の面影を失った残骸、それでも奇跡的に一部の外壁が残った。保存か、解体か、長崎でも広島と同じように議論が沸き起こった。
市議会は4年後に立ち上げられ、保存委員会っでは現状のまま保存すべきと結論づけた。状況を変えたのは、当時の市長(田川 務氏)である。彼は1か月の渡米後、浦上天主堂の解体へ舵を切った。多額の費用を投じて残す考えは持ち合わせていないと、13年後浦上天主堂は解体された。浦上天主堂から南西に500m、解体された一部の壁が爆心地の整備された公園、ひっそりと佇んでいる。被ばくを受けた所にあってこそ、意味がある。ここ、じゃないだろう。長崎の知識人は嘆く。

東日本大震災の後、大川小学校はどうなる?

東日本大震災から15年目を迎えた。東北最大の被害地石巻を象徴するものがある。石巻市の大川小学校である。剥き出しになった教室に刻まれているのは、津波の傷跡、津波の色、土砂に埋まった校舎である。死者、行方不明者、児童74名、教職員10名を飲み込んだ。小学校のすく裏手には津波より高い裏山がある。児童は待機、教職員の協議の間、校庭で教師の指示を待っていた。移動を始めたのは50分後である。1分後、堤防を乗り越えた津波が多くの児童を飲み込んだん。ラジオ情報をもとに、裏山に上れと言った提案、スクールバスの乗って逃げろと言った提案、それらをずっと無視して校庭にいた。児童と教職員、なぜ、子供たちの命を救えなかったのか。
津波の傷跡が残る教室、子供たちの思い出が詰まった教室、それらは、悲しい記憶を呼び起こす場所でもあった。大川小学校をどうするか、アンケート結果は8割が解体希望であった。震災後5年目、この流れを変えたのは、小学5年生の子供たちであった。どうして残すのか、なんで残すのか、あの時のことを思い出したくない。それらは、大人の意見として当然です。子供たちは地域の話し合いの場で、きちんとした意見を述べた。それを聞いた大人は、自分たちが、諸学校を壊すわけにはいかないのではないか、と考え始めている。子供たちが声を上げなかったら、多分壊されていたと感じている。

目に見えないものは記憶からも消える。

悲劇を記憶し、繰り返さないために被ばく地と被災地の思いが重なる原爆ドームと大川小学校、残したいという思いが繋がったと言える。生き残った被ばく者は、罪悪感を抱えていた。そして、崩れるままに崩れるほうが良いと思っていた。被ばくから81年、広島の町を焼く尽くした核兵器は今なお世界から消えてはいない。広島の記憶を未来に残す。その役割は爆心地に立ち続ける原爆ドームへ託される。崩したいけど崩されない、残さなければならない負の遺産として現物がそこにあることが大事なのである。大川小学校も遺族たちが屋根の修繕工事を行った。恒久的保存へ向けて第一歩を踏み出した。廃墟には世界中から人々が訪れている。心から消えるという意味は、出なくなったら、どんな建物かも思い出せなくなってしまうだろう。そうなっては遅い。なぜなら、目に見えないものは記憶からも消えるから。

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